読書が愚者を作り出す!? ある賢人が語る読書論

はじめに

ごきげんよう、所長の”はる”です!

この記事を読んでくださっているみなさんは、読書に関心をお持ちの方々だと思います。

そこで質問です。

みなさんは、読書をした後に、「あー愚者になったわー。」と思ったことがありますか?
多くの方が「そんなのあるわけないだろ!」と心の中で答えてくださったのではないでしょうか。

ポジティブな効果をもたらすイメージの「読書」という行為。それがなぜこの記事のタイトルにあるように、「愚者」を作り出してしまうといえるのか?

これには、ある哲学者の語った内容が関係しています。

その哲学者の名は、ショーペンハウア

そして、今回ご紹介する内容が書かれているのが、彼が書いた「読書について」というタイトルの文章です。

ところで、ショーペンハウアーがどんな人かご存知ですか? 
本題に入る前に、まずは簡単に著者の紹介をしていきたいと思います!

ショーペンハウアーってどんな人?

1788年に生まれ、1860年に亡くなったアルトゥール・ショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer)。

ものによってはショーペンハウエルやショウペンハウエルと表したりもします。

ショーペンハウアー

大学の講師をしていたこともあるのですが、生前はなかなか評価されず、晩年になってようやく脚光を浴びました

また、当時絶大な人気があったヘーゲル(この人も哲学者です!)のことが大嫌いなことでも有名で、同じ大学で講義をもっていたとき、わざとヘーゲルの講義と同じ時間に行っていたそうです。

果たして生徒の数はどうだったか。結果は書かないでおきますね…。

ちなみに、ショーペンハウアーは「人間なんか生まれてこない方がよい」という主張をする「反出生主義者」だったりもします。

「反出生主義」はとても興味深いテーマなので、また別の記事で解説してみたいなと思います。

「読書について」

さて、本題に戻りましょう。
ショーペンハウアーが書いた「読書について」が収録されているのがこちらの本。

『読書について 他二篇』

岩波文庫の『読書について 他二篇』で、1851年に出版された原典(ドイツ語)の翻訳です。

読書に関する本って今でもたくさん出版されていますよね。

では、なぜ今回読書論を扱う記事を書くにあたり、最新のものではなく、あえて古い本の内容を扱おうとしているのか。

それは、カバーに書かれている通り「現代の我々にとって驚くほど新鮮」だからです。

この本、読み進めながらズバズバ胸に刺さってきて、めちゃくちゃ耳が痛くなります(物理的な痛みではないのでご安心ください!)。
160年前に書かれた内容なのに、ハッとさせられます、ました…!

そして「是非紹介したい!」という衝動に駆られたのです。

ところで、カバーに「アフォリズム」と書かれているのですが、どんな意味かご存知ですか?

「アフォリズム」は、箴言(「しんげん」と読みます)や警句、格言といった言葉に訳されます。
そして、この言葉は、「物事の真髄について簡潔に鋭く表現した言葉」を意味します。特に皮肉さや辛辣さなどが混じっているものだそうです。

この本では、読書に関するアフォリズムが散りばめられていて、納得することがとても多いのです。

それらをすごく端的にまとめると、次の3つになるかと思います。

  • 錯覚しないこと
  • しっかり見分けること
  • 自らの足で歩くこと

それぞれどういうことを表しているのか。これから一つずつ解説していきます!

ポイント①:錯覚しないこと

書物を買いもとめるのは結構なことであろう。ただしついでにそれを読む時間も、買いもとめることができればである。しかし多くのばあい、我々は書物の購入と、その内容の獲得とを混同している。

『読書について 他二篇』p.137

上で引用したのが、「錯覚しないこと」に関わる部分です。うっ、耳が…。
本を買っただけで知識を得たと錯覚しちゃならんぞ」というメッセージを受け取ることができますよね。

「本を買う」という行動だけで、少し賢くなった気がする、勉強した気がする、といった錯覚をしてしまう。こういった経験、みなさんにはないでしょうか?
少なくとも私は往々にしてあります…。

いわゆる分厚い「鈍器本」を意気込んで買っても、結局インテリアになってしまったり…。

よくよく考えてみると、「勉強する意思がある」という気持ちを確認するためになってしまっている場合もある気がします。

自分の気持ち(やる気)を物体として確認できる、ある種の「お守り」のようなものになっているのかもしれないですね。

でも、本を手に入れたところで、読んで咀嚼しない限りは、その本を持っていない人と同じ状態といっても過言ではありません。

ちなみに私は「積ん読」を否定しませんし、むしろ肯定派です。

ですが、ある本を自分のものにすることを、その内容を自分の「もの」にすることだと錯覚してしまう危険性は、改めて認識しておきたいものだなと考えさせられます。

ポイント②:しっかり見分けること

悪書を読まなすぎるということもなく、良書を読みすぎるということもない。悪書は精神の毒薬であり、精神に破滅をもたらす。良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。

『読書について 他二篇』p.134

けっこう過激な記述がきました。「悪書は精神の毒薬」!

「この本、精神の毒薬だなぁ。」と思うことはあまりないとは思いますが、みなさんも「え…?」「おい、まじか…。」と言いたくなるような本を読んでしまった経験がおありではないでしょうか?

ところで、出版業界ではある頃から少ない流通量でも多くの種類の本を作る機運が高まりました。
この状況、「粗製濫造」といわれることもあります。
このような状況になった背景には、出版社の資金繰りの方法が関係しているのですが、これはまた別の機会に書きましょう。

とにかく本の種類を増やすために、内容が怪しい本だったり、同じ著者が何冊も書く同じような本だったり、とりあえず流行に絡めてみた浅い本だったりが生まれてしまったのです。

このような状況ですので、本を読む前にしっかり確認しておかないと、時間もお金ももったいないことになります

では良書と出会うためにはどうしたらよいのでしょうか?

色々方法はあると思いますが、最も手っ取り早く良書と出会う方法を紹介したいと思います。
それは、古典(日本の古典に限りません!)に目を向けることです。ショーペンハウアーも「古典読むべし!!!」と強く主張しています。

基本的には、良書であるからこそ何十年、何百年、何千年と読み継がれてきているわけですよね。
ですので、一度は手にとってみることをオススメします。

古典というと私は岩波文庫で読むことが多いのです。
ですが、訳が古く堅いものもあったりするので、あまり古典を読み慣れていない方は、光文社古典新訳文庫のものを手にとってみてはいかがでしょうか。とてもわかりやすく、オススメです。

さて、少し脱線してしまいましたが、ショーペンハウアーの「読む本を選別する」という考えは、人生が有限であるうちは、とても大切になってくる考え方だと思います。

より良質な本を読んで、良質な読書体験をしていきたいですね!

では、次は最も大切なポイントである「自らの足で歩くこと」について説明します。

ポイント③:自らの足で歩くこと

読書は他人にものを考えてもらうことである。

『読書について 他二篇』p.127

本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。習字の練習をする生徒が、先生の鉛筆書きの線をペンでたどるようなものである。

『読書について 他二篇』p.127-128

読書にいそしむかぎり、実は我々の頭は他人の思想の運動場にすぎない。そのため、…ほとんどまる一日を多読に費やす勤勉な人間は、次第に自分でものを考える力を失って行く。つねに乗り物を使えば、ついには歩くことを忘れる。

『読書について 他二篇』p.128

そしてこうなってしまった人のことを、

多読の結果、愚者になった人間

『読書について 他二篇』p.128

と表現しています。

出ました「愚者」。ここで出てくるんですね。
ショーペンハウアーがここまで厳しい言葉を使って何がいいたいのかというと、

熟慮を重ねることによってのみ、読まれたものは、真に読者のものとなる。

『読書について 他二篇』p.128-129

ということです。

読書のよさの一つとして、「架空・実在問わず、他人の思想・思考を追体験できる」ことがあると思います。これによって考え方やものの見方の幅が広がるんですよね。

ただ、追体験したところで、自分の中に何か残らなければ、今後の人生で生かすことができません。

「本は心の栄養」といったりしますよね。ショーペンハウアーは本を「精神的食物」と表現しています。
つまり「咀嚼すること・消化すること」が大切なのです。

読んだ内容から得たものがなかったら「あーあれね。読んだことある(汗)」としかいえない状況になってしまいます。

もったいない…!

せっかく時間をとって行う読書。

本を「乗り物」として扱うのではなく、「自らの足で歩く」=「自分の思考を試す」ことができるように読み、どんどん糧にしていきましょう!

まとめ

以上、賢人ショーペンハウアーが語る読書論についてみてきました。いかがでしたでしょうか?
今回注目した3つのポイントについて、簡単におさらいしましょう。

  • 本を手に入れただけで、その本の内容を自分の糧にできたと錯覚しないこと
  • 良書と「おいまじか本」をしっかり見分けることで、良書に触れる時間を増やすこと
  • ただ目を流すのではなく、思考しながら読み進めていくこと

今回紹介した内容は、読書術の中でも抽象的というか、マインド的な部分が主だったかなと思います。
言われてみれば当たり前なことが多かったかもしれませんが、ついつい無自覚になってしまいがちではないでしょうか。

「本を読む」というひとくくりにされる行為も、やり方によって全く別の結果につながります

今のところ人生は有限。その中でいかに良質な読書体験を追い求めていけるか。
そのことを考えるきっかけになれば幸いです。

それではこのあたりで失礼します。
最後まで読んでいただきありがとうございました!

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